昭和43年8月14日 朝の御理解

御理解 第91節
「もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる。」



もとをとって道を開く者は、あられもない行をするけれども、後々の者は、そういう行はせんでも、みやすうおかげを受けさせると、こう仰る。これは、教祖の神様ご自身が、あられもない行をなさって、そして、みやすうおかげの頂けれる道を教えて下さったんですね。そういう元を取ってくださったんです。ね。ところが、ここに、えええー、難しいことがあるんです。みやすうおかげを受けさせると仰せられるけれど、なかなか、みやすうおかげは受けられない。それが、どこに原因があるかと言う事。見やすいどころか、もうとても、おかげを受けると言う事は大変なことなんです。そこに、私共が追求してまいりますとね。結局、私が、素直でないからという事になります。ね。真実はこの世の宝とさえ、えー、言われるんです。ね。本当なことというのは、えー、確かに、私共の、宝という事は、そのように大事にしなければならないという事である。それを、私どもが、どれほどに、大事にしておるかという事です。ね。本当のことが、難しいことでもないのに、わざわざ、本当のことをしたら、馬鹿らしいように思うたり、ね。本当のことは、いかにも難しい事のように思い込んだり、ね。その、宝とも思われるその、真実を、本当なことを、おろそかにする。教祖の神様は、この沢山な、いわば、百八十二か条、ね。その、神戒、神訓、御理解の中に、その事ばかりを説いておられる。ね。いわゆる、本当の事を説いておられるのです。その本当の事を分られるまでに、あられまない行をなさったんだ。ね。金光大神の取次ぎによって、みんながおかげを受けられるようになった。ね。金光大神が、教えたことを違わぬようにと、天地の親神様も言うておられる。ね。ですからその、金光大神が言われた事、残された御教えというものをです。私共が、素直にね、それを受けて、立たせてもらう日々であれば、いいのであるけれども、なかなか、よう、それを素直に受けない。これがもう、十人が十人、まあ、大体そうだと思うのです。教祖の神様が教えて下さった事を、ね。言うておられる事をです。素直に守り、素直に行じて行ったらね、それこそ、みやすうおかげは受けられるのであるけれども、それを、よう守らん。そこで、私共はね、また、あられぬ行を私共がせなきゃならぬ。ね。いうならば、教祖の神様が教えて下さった事をね、それが確かめることになる。ね。教祖の神様は、こう言うてござるけれども、なかなか、ね。その、けれどもが付くのである。素直でないから。ね。そこで、素直でない私というものを、先ず、認めさせて貰うて、本気で、素直にならせていただこうという、私は、願いを持たなければならない。素直にならせて下さいと。ね。御教えが、ご理解が、どうぞ、素直に私の心に入ってまいりますように、という願い。ね。私共の、先覚であり、先輩である、いわば、御徳を受けられた先生方の、でもやっぱりそうなんです。ね。教祖の神様の御教えを、すなおーに受けられりゃ、あのような、あられもない修行をして下さらなかっても良かったんです。まあ、この辺で言うなら、久留米の初代にしろ、甘木の安武先生にしろ、ね。福岡の吉木先生にしろ、ね。それこそ、私共が、聞いただけでも、おー、身の毛がよだつような、いわば、心行、表行、いわゆる、あら修行もなさっておられる。ね。そして初めて分っておられることは、教祖の御教えの素晴らしさ、ね。その真実性、これが本当だと言う事。いや、教祖は御教えを守るほかに手はない、道はないという事を、あられぬ行をして、初めて分っておられる。ね。ですから、大体は、ここはもう、教祖ご一人でいいのだ。本当は、ね。あられぬ行というのは。後は、みやすうおかげを受けさせると仰る。それを、教祖の神様が教えて下さっておられるその、本当なこと、いわゆる、真実をです、私共が疑うわけなんだね、いうならば。ほんなこっじゃろかとこう思うんです。そしてそこから、苦労がある。みやすうおかげが受けられない。ね。悲しいもんですよね、人間て。本当のものを見せられても、それを本当のもんだと見切らんのだと。そして、自分が、少しばかり勉強したり、もっておる知識を持ってです、ね。いうなら、人情をもって、それを計ろうとする。ね。そこから、いわゆる、おかげが難しゅうなってくるのです。ね。そこでほんなら、結局、人間て言うものはみんな、そうして素直でないのだ。これが本当ぞと教えられても、それを疑う。そして、自分でバタバタしなければならん。自分で、勝手に、苦労を作っていく。勝手に心配をしておる、心配も要らないことを、を心配しておる。ね。そこで、教祖は、また、次の御教えに心配する心で信心せよとこう仰る。心配する心で信心してみよと。心配は要らんのだ。そこで、私共は、やはり、教祖ご一人があられぬ行ではなくて、私共も、素直であれば、あられぬ行は要らんのだけれども、ね。私共の、この素直でないものを壊していく。自分の我というものを壊していく、脱皮していく、ね。そこに、やはり、あられぬ行が、また望まれるわけなんです。ね。そういう、例えば、行をして修行をさせて頂いておるうちにです、ね。なるほど、教祖の神様は、言うておられる通りに、教えておられる通りするほか手はないと言う事が、あられぬ行をして初めて分る。ね。まあ、ここでそれを、ま、親先生任せというようなことを言うですね。任せられない、けれども、任せる。ね。そして、初めて分ることは、任せておくことが一番の楽な道であり、おかげの道であるということが分かる。そこを、繰り返しして行くうちにです、やはり、素直に、素直に親先生の言われることが聞けれる。ね。親先生の言われる通りの事が成される。親先生は、ああ言いなさるけれども、と、だから、言う間は、やはり、あられぬ行をしなければならぬと言う事。この、あられもない行というのはきついです。あーた方が、おかげは受けたい、修行はせんと言うても、おかげが受けたいという気持ちがある限り、神様は、あられぬ行を、絶対求め給うです。おかげは受けたい、そういう一念は燃やしておる。なら、なるほど、(おみちする?)神様はその、あられぬ行を求め給う。なぜかと、素直になしたいわけなんです。ね。神の一言は、ね。千両の金にも変えられないほどの、大変な宝であるという事を分らせたいのだ。ね。船にも、車にも積めぬほどの、有難いものである事を分らせたいのだ。ね。
九十一節、ね。九十節の最後のところにね、神のおかげで開かせてもらうのぞと。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱していくあいだには徳が受けられると。様々な問題があるよね。難儀な問題が、難儀というあらゆる、難儀な問題があるけれども、ね。一時は大変難しいことであっても、それを辛抱していくという、ね。辛抱していくうちにおかげが受けられると仰っている。辛抱していくうちに徳が受けられる。ね。だから、本当のこと言うたらね。この、徳を受けなければ、人間は素直にはなれんのです。ね。徳を受けさせて頂いて、初めて、ね。神様の前に無条件というかねえ。やはり、本当の意味での、素直さというのは、そこからしか頂けん。だから、その、素直になる稽古を一生懸命させてもらっているうちに徳が受けられる。待てと仰ら、三年はおろか、十年でも待とうと。ね。その間にです、丁度、あの、ちんころがお預けをしておるようにね。いつ許されるじゃろか、いつ許されるじゃろかと、ね。そこんところをですね、私共が、おかげを頂いていく。ね。あられぬ行というのは、自ら求めてする行もあるけれども、ね。神様が求め給う。いわゆる、自然が求める。ね。いわゆる、自然の働きに逆らわない。ね。自然の働きに逆らわないどころか、その自然の働きを実意丁寧に、大事にして行く。逆らわないだけじゃいけんのです、ね。自然のその、働きそのものが神様の働きなのだから。ね。そこんところを、大事にして行くところから、そこから、より本当なことを分らせて貰う。その、より本当なこと、より本当なことが、結局、煎じ詰めると、教祖様の教えておられる、いうならあの、素朴な表現で教えておられる、あの御教えに帰一してしまうのである。ね。そういう、いわゆる、段階というか、過程をたどらなければ、私共が、教祖の御教えを素直に信じることが出来ないほどに、私共は、めぐり深きものなのです。強情なのです。ね。だから、あられもない行を求め給うのです。ね。ここんころは、本当のことを言うと、あられぬ行はせんでも、みやすうおかげは受けられると、教祖の神様が、ご自身が、あられもない行をされて、ね。そして、おかげのみやすう受けられる、本当な事を身をもって、ご自身がおかげを受けられた事を、御教えにして、話にして残しておって下さる。ね。だから、後のものはもう、私がしたようなみや、ねえ。あられもない行はせんでも、私が言う通りにしときゃ、おかげは受けられるというのであるけれども、私共はね、それを、素直に受けきらない。そこに、やはり、また、あられぬ行をして、教祖の神様の仰られたことを確かめる。ここでもやはりです、皆さんが、あられぬ行をさせて頂いて、親先生が言われることを確かめる。そして、ね。五年経ち、十年経って行きよるうちに、ああ、親先生が仰る通りにしときゃ間違いないですよと、人にも言えれるようになるけれど、それを聞く人は、そんな訳にはいかん。貴方の十年間と言う間、確かめに確かめてきておるからそれが言える。初めての人は、そんな訳にはいかん。そして、こっそりと、親先生にこっそりと、お届けもせんでから、あそこに頼みに行ったり、ここへ行ったりするでしょうが。ね。いや、段々五年も十年もおかげ頂いてから、ね。大抵、確かめているようであっても、まだ、人間心を使うて、あっちこっち走り回っておろうが。で、この事も親先生には内緒にしておって下さい。そして、おかげは受けられん。ね。自分の胸に手をおいて見りゃ直ぐ分かる。任せきっとらんもん。ね。迷うておる。だから、おかげが迷うてしまうのです。任せると言うたらもう、心から、ね。いわゆる、根から、任せなきゃ。ね。そういう素直さを神様は、私共に求めておられる。ね。なぜ求められるかというとです、本当に、人間が幸福にならせて頂く事を願っておられるからなんです。みやすうおかげが受けられる道を、教えようとなさっておられるから、ね。
私が思うのに、んー、ほんとにそういうように私共が、素直でないからね、神様の前に、えー、出らせて頂いて、もうこのように素直でない私なんだと言うね。その、素直にならせて下さいという事もだけれども、やはり、すがらなければおられない事、ね。願った上にも、繰り返し繰り返し願わなければおられない事。これはあの、まあ、私は私なりに、信心が、こう目の詰まった信心が出けておるときにはね、えー、まあ、いうなら、願わんでも良いというかね、願わんでもおかげ下さるようです。ね。けれどもね、そういう信心が出来ておる時には、出来ておるほどに、今度は、気やすう神様にお願いが出来る。だから、ここんところが、大事にしていかなければいけない。ね。神様には、気やすう願われる。神様はまた、みやすうおかげを下さる。これがあの、皆さんは皆さんなりに、一生懸命信心が出来よる時にはね、いわゆる、みやすう出来るんですよ。いわゆる、神様と心やすうなっとるから。ね。例えば、お金一つ借りるでも、日頃、不義理をしておるところには、なかなか、頼みにいかれないようなもんです。日頃、心やすうしとら、ひょっと、いくら貸して下さい。はー、もって行きなさい、というようなもんです。ね。だから、不義理をしておるから、今度は、ほんなら、借りに行かんで良いかというと、借らなければ、頂かなければおられないのが私なんです、私なのだ。神様と私共との関係というのがね。もうこの頃、神様に御無礼しとるけんで、あっは、お願いせんで良いて事はない。ね。しとれば、しておるほどにまた、すがらなければおられないのが神様。ね。厳密に、自分の信心というものをよく、うー、見てみるとね。本当に、怠慢無礼、お粗末御無礼、ね。神様のそばには、怖うて、寄り付かれんごと在るけれども、寄り付かねばおられんのが神様なのです。ね。そういうですね、いわば、あー、弱いものが人間。出けとりゃ、出けとるで、すがらなければおられん。出けておらなきゃ、出けておらないですがらなければおられません。だから、信心はね、そこまでは、一つお互い、高めておきたいと思うね。信心が、分っていないとね、結局、疎遠になったら、いよいよ疎遠になりきりになって、おかげが受けられないようになってしまう。ね。神様は、そういう、ね。もう、私共の、信心が出来ておろうが出来ておるまいが、ね。すがらなければ、ね。この神様のおかげを受けなければ、自分が立ち行かんのだというところまでは分っておきたい。ね。そこから、みやすうおかげの受けられる道を求めるならば、先ず、自分自身が、いよいよ、素直にならせて頂く事の、いわば、修行をさせてもらわなければならん。ね。そして、親先生が言われることを、教祖様が教えて下さった事を、ね。確かめてみるが良い。確かめて確かめて、それを確かなものにして、初めて、なるほど、ね。成り行きを大事に、成り行きを尊べと仰るが、ね。本当に、成り行きを大事にさえしていきよりゃいいんだと、心配は要らない、不安はない、ね。その成り行きを大事にさせて頂く、そこから、より本当なことが分り、より本当なおかげがそこから頂けてくるようになる。
もとをとって道を開く者は、あられぬ行をする。後は、後々の者は、みやすうおかげを受けさせると。確かに、九十一節には、そう言うてありますけれども、ね。私共が、そこまで、みやすうおかげの受けられるところまで行くためには、やはり、これは、修行しなければね。なるほど、教祖の神様が嘘は仰ってはござらんのだと言う事が確かめられないんです。それをです、ね。そういう、確かめ確かめもせずに、ただ、その場限りの、お取次ぎを頂いて、お願いをして、おかげを頂いて、その場だけが立ち行くというようなですね。その事だけがおかげ頂いておるといったような事では、ね。やはり、根本的な本当の助かりにならない。ね。お金が足りませんから、お金のお繰り合わせを、からだが弱うございますから身体を強うして下さいと。その事だけを願って、その事だけが、例えよし、成就になってもです。本当の助かりの道には、それでまだ、ほど遠いことなのですから、ね。私どもが、あー、ね。自ずと、頭が下がっていくような内容、ね。それを今、私の申しました、この神様を抜きにしては、この神様のおかげを頂かなければ、立ち行かん私達。それは、怠慢無礼、お粗末御無礼の私であっても、ね。やはり、だから、神様から、はなれるわけには出来ん。であれば、あるほどに、お詫びにお詫びをさせて頂いて、そばに寄らなければおられない神様。の、頭には、まあ、これで私の筒いっぱいといったような信心も修行も出来ておるから、願わんで良いという事はない。願わにゃんことは山ほどある。そしてそれが、まあ言うなら、気やすう願われるというだけの事である。ね。この神様の、どのような場合であっても、この神様のおかげを頂かなければ、立ち行かん。なら、その神様のおかげを頂かせて頂くためには、私共が、一つ本気でです、素直にならせて頂くという稽古。その素直にならせて頂く稽古と言う事がです。ここでは、あられもない行をしてでも、自分というものの、からというかね、そういうものを打ち壊させて貰う。ね。自分の我が出らんところまで、自分を叩いてみる。ギリギリ自分というものを分ってみる。ね。そこから、私は、より本当のおかげがですね、頂けて来る様になる。
今日は、どうぞ皆さん、この九十一節のね。もとをとって道を開く者は、あられぬ行をするけれどもと言う事は、ね。私共も、やはり、あられもない行をさせて頂いてでも、ね。その真実性というものをね、その本当であるということをね、確かめるためには、やはり、私共も、修行しなければ分らない。ね。そして、結論に達するとですね、こらもう、こげんわざわざ、あっ、修行せんでん良かったたいという事なんですよ。本当に、教祖様の仰る通りに、はいはいと言うときゃそれでよかっじゃん。親先生が言われる通りに、右向けといや右向き、左向けといや、はいち左ば向いときゃよかっじゃん。という事に到達する。ね。ですから、皆さんの場合はね、それが、あの到達して、ある意味合いにおいて到達しておる姿というものを、ここ、あらあら見えるですね。まあ言うなら、ここじゃ一番の手近な手本を見るなら私なんです。ね。神様の前に、いうなら、泣く泣くでも、ハイと言うて来たと言う事なんです。それが、現在の親先生の信心だという事になっておるわけなんです。ね。ですから、ここにもし、家があり、蔵があり、財産があるとするなら、それは、私の神様の前に、「はい」と言うて、一つの「はい」から生まれているんだと言う訳なんです。ね。それは、親先生を神ならえという事になる訳です。ね。だからその、神ならわして頂くと言う事にもです、ね。やはり、ね。そのまま、ちょっといけんのです。やはりあの、そこに、あらもない修行でもさせて貰うて、ね。本気でひとつ、眠かろうけれども、朝の御祈念でも参らせてもらう。ね。求められる修行なら、それを本当に、合掌して受けていくところの姿勢を持って、信心が進められていくうちにです、ね。私共の、これはもう、自分の知恵やら、我力やらで行きよった分じゃもう、馬鹿らしかと言う事が分る。ね。で、いわゆる、神様任せの信心生活がなされると言う事が、人間の幸福であるという事が分る。ね。身に徳を受けていけば行くほどに、ね。これが、段々、広く大きくなって行くことによって、おかげも広く大きくなっていくことが確信されてくるようになる。ね。例え、一時は難しいことがあっても、そこを、あられぬ行を、ね。それを、辛抱していくと言う事は、やはり、あられぬ行なんです。そこんとこを、バタバタせんで辛抱していくと言う事。ね。それを、信心の薄いもの、信心のないものは、自分でそこを抜け出らん、自然を待つ、働きを待ちきらん。ね。待ちきらんから、おかげは頂いても、徳は受けられん、それでは。ね。ここんところは、辛抱しぬかせて頂いておるうちに、身に徳が受けられると、こう仰っておられる。ね。その、身に徳が受けられてくることによって、私共は、もう、そこが抜けたような素直さを、神様の前に、表していくことができる。だから、おかげも底の抜けたようなおかげになってくる訳なんです。ね。
教祖は、決して嘘はおっしゃっておられぬ。みやすうおかげは受けられる。必ず、本当に、みやすうおかげは受けられる。けれどもそれを、素直に、本当のことを本当の事と認めきらんから、見やすくなってこんだけのこと。そこのために、私共が、修行させて貰う。教祖の御教えを、本当に、私共の信心修行によって確かめて見る。ね。そういう、私は、信心がね、そういうための修行が必要であると思うです。どうぞ。

中村良一
2005年4月24日